«東日本大震災写真展7月3日終了【残り2日】 | 明日から静岡県焼津市にて写真展始まります。»
7月9日から福島県での撮影を開始した。 ありふれた日常がある。 あたりまえの日常を送ろうとしている。 でも、根底にはどうしても拭えない放射能がある。 目には見えないそれが、人の心の根底に根を下ろしている。 3月11日、僕たちは何を失ったのか。 僕たちは何を築き、何を失おうとしているのか。 7月10日 福島県双葉郡川内村(村の20キロ圏内は警戒区域、それ以外は緊急時避難準備区域) 朝七時、まだ気温が上がらずに気持ちの良い村内をぶらぶらしてみた。 人の営みが聞こえない。自然の営みが人の営みを覆い尽くそうとしている。 おじいちゃんが向こうから自転車に乗ってやってきた。日課の朝の散歩とのこと。 いつもは女性陣が出払って、田んぼの草むしりをしている時期らしい。 「このままじゃ、山になっちまうよ」



福島県南相馬市原町区
壊れた防波堤の向こうには、青い奇麗な海が広がっていた。


福島県南相馬市原町区、北泉海水浴場(東北電力原町火力発電所横:緊急時避難準備区域)
海に絵を描くサーファー。
もう我慢出来ない、と海に入るサーファー。
海がもとに戻るストーリーを絵本にしたいと話すサーファー。
瓦礫がまだ残るビーチだが、
カップルは砂浜を歩き、
サーファーは海に入り、
おじちゃんが散歩をしていた。





福島県相馬市松川浦漁港
海苔の養殖がさかんな松川浦漁港を訪れた。
津波で被害のあった船を直し、この日、初めて海に下ろした。
明朝、海の中の瓦礫撤去を手作業で始めるとのこと。

田んぼに水が入っているのが嬉しくて、稲の蒼さが嬉しくて休憩中のおじさんに話しかけた。
ここから100メートル海寄りの田んぼは津波による塩害で田植えは出来ない。
「収穫が楽しみですね」と僕は言った。
「収穫して検査するまでわからねえべ」とおじさんは答えた。

福島県福島市
小鳥のさえずり、軽トラックのエンジン音、蚊の大群。
日焼けした肌に、夕方の風が心地よい。
帰り道、真っ暗な道無き道を歩きながら、僕は迷子になった。
ゆりさんゴメンなさい。

7月11日 福島県郡山市ビックパレット
避難区域である富岡町と川内村の住民約500人が避難生活を送っているビックパレット。
震災から4ヶ月目。段ボール生活を送っている人たちがまだこんなにもいるんだと愕然とした。
「もう10年も20年も家に帰れねえよー」
通りすがりの僕らに、
きっと一緒に暮らしている人たちにはぶつけにくい気持ちを外から来た僕らにつぶやいたおじいちゃんがいた。
なんかもう、とても悔しくて悲しくて、涙が出そうになるのを必死にこらえた。

「放射能の雨だあー。」
土砂降りの雨の中を駆け回りたい子ども達。
「行ってもいいかなあ」と遊んでいたリュウノスケ君が僕に問いかける。
「放射能が含まれているかもしれないから、行かない方が良いよ。」なんて言いたくないから、
「服も靴も濡れたら、お母さんが困るだろ」と伝えた。
僕たち大人は子どもの無邪気さまで奪い去ろうとしている。
子どもは大人達が作り出した環境の中で精一杯もがいている。
どろんこだらけになって家の玄関に転がりこむ僕を笑顔で迎えてくれたお母さんのことを思い出した。
結局、皆、雨の中を走り回った。


「今年は桜が見れなかったんですよ。」
2000年頃から桜の名所として町興しを行ってきて、今では2000本近くの桜が町内に植えられている。


ビックパレットに隣接する仮設住宅にて。
娘さんとお孫さんたちも遊びにきていた。

午後八時。子どもたちと走りまわっていたら、
「りかちゃんに電話したい」と突然ある女の子が言った。
「りかちゃんって?りかちゃん人形?」
「そうだよ、りかちゃんに電話すると色々お話を聞かせてくれるんだよ」
「そっかー、でももう八時だからりかちゃんは寝てるんじゃない」
きっと有料電話だろうから、僕は電話をかけるの渋った。
渋る僕の所に他の女の子が丁寧にも電話番号を書いた紙切れをもってきた。
「東京の番号だからな~、ちょっと高いかもしれないなあ」
「エッ、りかちゃんって東京にいるの」
「あっ...そうだよ、りかちゃんは自由が丘っていうちょっとオシャレな町に住んでるんだよ。」
「ふーん。ねえ、電話してよー、電話してよー」
「分かったよ、一回だけね。」
結局3回も電話したあげく、りかちゃん電話に飽きて、こどもたちは避難所にある図書館に行った。

ビックパレット内の短波FMラジオ局「おだがいさま」。
とても温かくて強い意志が感じられるラジオ局。
ライブで伝わっていく声はとても優しい。
「4ヶ月経ったから、そろそろ頑張りましょう、なんて僕は絶対言えないですよ。
それぞれの傷つき方があるんだから。」


