KAZUMA OBARA

トークイベント3月19日「戦争を伝える。歴史を引き受ける。」

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【日時】2017年3月19日(日) 14時〜16時
【場所】フォトギャラリー・サイ 大阪市福島区鷺州2丁目7−19
【入場料】大人1500円 15歳以下無料
【問い合わせ】06-6452-0479
【ギャラリーウェブサイト】http://photo-sai.com/exhibition/2017_exhibit/2017-03_SH_text.html



皆様へ

明日、3月19日、72年前の空襲で障がいを負った3名の女性、安野さん、小林さん、藤原さんが大阪福島区で話をしてくださいます。安野さんは6歳の時に左足から下を失い、藤原さんは生まれて2時間で左足に焼夷弾の炎を受け、腿の付け根のあたりから下を手術で切断しました。小林さんは11歳の時に右足の膝に焼夷弾の破片を受け、今でもまっすぐにはなりません。彼女たちは戦争によって障がいを負ってから、学校でも職場でもいじめにあい、社会から孤立して「戦後」を生きてきました。世間が、高度経済成長期、バブルという成長を経験する中でも、彼女たちは戦争の傷跡を抱えながら、社会から助けられることも無く、そして、痛みの声をあげることも許されず時を過ごしました。

明日、この3名の女性が話をしてくれます。安野さんは手紙を読んでくれ、小林さんと藤原さんは紙芝居を読んでくださいます。
彼女たちは長い間、その痛みを押し殺したまま、生きてきました。しかし、年を重ね、孫の顔を見る頃になると、自分たちの経験を伝えずして、本当の戦争のことを今の人たちが分かるのだろうかと、自分たちの痛みについての話をはじめました。自分の痛みを子や孫に経験させたくないとして。彼女たちは自身の傷を語る時、「醜い」という言葉を使います。女性が自分自身の体をそう形容する部分をさらしてまで、伝えることを始めました。

僕は、戦争を知らない世代です。映画やドラマ、時に自分の祖父母に戦争のことを聞くことがあったけれど、戦争の「いたみ」は僕の深いところまで落ちてきませんでした。それが、安野さんをはじめ空襲被害者の方に会うようになって全く変わりました。その言葉を聞き、傷を見て、そして、彼らが伝えようとすること、守ろうとするものを見て、その傷のいたみ、戦争の重みを感じ始めました。

義足を履かなければいけない、安野さんと藤原さんは、外出する為に多大なる時間をようします。そして、時に足のコンディションによっては外出する為に1日足を休ませたりしなければいけません。19日だって同じように、時間をかけて、足を運んでくれます。

皆さんが自分の死期を意識している今、僕らの世代に出来ることは何かと考えます。それは、戦争を伝えようとする彼女たちにしっかり僕ら若者が答えることだと思っています。彼女たちが自分の痛みをさらしてまで、守ろうとしているのは、他でもない、僕らなのに、それに答えることがもし出来なかったら、それは辛すぎることだと思っています。

明日、19日、お時間があれば是非いらっしゃってください。15歳以下は無料です。是非多くの人に直接その声を聞いて欲しいと思っています。

下記、安野さん、小林さん、藤原さんへのインタビューの抜粋です。


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安野輝子氏

1945 年、敗戦の年の 7 月でした。空襲警報が鳴って、同時に大きな衝撃を受けて、気を失いました。 どのくらい時間が経ったのかは分かりませんが、弟たちの泣き声で気がつくと、まわりは血の海でした。 私の左足は膝から下が千切れて、弟も血だらけでした。私は 6 歳になったばかりの幼稚園の年長児でし たが、突然足が無くなったということがどういうことか分かりませんでした。トカゲの尻尾みたいに、 また生えてくるものとその時は思っていました。2 度目の空襲では、家も焼けて街は焼け野原になりま した。

それから私たちは疎開しました。母の着物を農家に持っていっては食べられるものに換えて、母は養っ てくれました。私たちは芋づるやぬかの団子を奪い合って食べていました。そんな状況の中で、弟は栄 養失調のために 2 歳で亡くなりました。私の足は治療に行くのが遅れがちで、暑い盛りの中、傷は化膿 してウジ虫がわいて、そして悪臭を放っていました。

終戦は疎開先で迎えました。毎日轟音に怯えていた私は「もう、B29 は来ないよ」と言われて、嬉しかっ たのを忘れません。出征していた(戦争へ行っていた)父はマラリアにかかって、終戦後、1 年して帰っ てきましたが、家族を養うまでの復活は出来ないまま、どこかへ行ってしまい、戦中戦後と母子家庭で した。

学校生活は運動会も遠足も傍観者でした。雨が降っては休み、いじめられては休み、勉強にもついてい けませんでした。友達と楽しく過ごす事もなく、いつも孤独で、「あのとき、助からなくてもよかったの に」と思うようになりました。小学校はなんとか卒業出来ましたが、中学校はほとんどいけないまま終わっ てしまいました。差別や偏見が怖くて、青春時代は戦争の傷を隠して家の中で洋裁に励んでいました。

私は、この義足がないと歩くことも出来ません。朝起きて義足をつけないとトイレにも行けません。ま ず一番にすることは義足をつけることです。長時間歩くと断端部(切断部)が擦れて蒸れて傷つき痛み ます。手当てをして軟こうを付けて休むと、翌日には歩けたのが、最近は最低1日くらいは義足をつけ ず患部を風にさらし乾燥させないと義足は付けられなくなりました。義足を付けないと何も出来ないの で、私の命と同じくらい、この左足がもってくれたら良いのにと思っています。痛みは日常的です。こ の苦しみや不自由は何年経とうとも生きている限り続きます。この苦しみはもう誰にも経験してほしく ありません。 


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藤原まり子氏

私は 1945 年 3 月 13 日に生まれて、その 2 時間後に焼夷弾によって左足に障害を負いました。おじい さんが庭に掘ってくれた防空壕の中に布団ごと引きずって、母と私を避難させたそうです。そして、そ の防空壕の中に焼夷弾が落ちてきて、布団に火がつきました。お産直後のお母さんは、なんとか防空壕 からはい出して助けを求めたようです。それで、近くを通りかかった人が助け出してくれて、私は死な ずにすみました。でも、大きくなって、あのとき死んでた方が良かったんじゃないかなって思ったりし ます。色々葛藤があります。

私の家は小さい頃、お風呂がなかったんです。だからいつも子どもがいないような遅い時間帯に銭湯に 行っていました。まずはお母さんが私を洗ってくれて、それから、お母さんが自分を洗い終わるまで待っ ていました。ある日、男の子と女の子が私を見て「おかあちゃん、おかしな足や」って言うんです。そ したら、その子のお母さんが、「悪い事したら、あんな足になんで」って言って。それを聞いた時に、も のすごい悲しい気持ちになりました。なにも、好きでなったわけじゃないのに。

小学校に入るまでは、足のことはそんなに気にもしていませんでした。でも、学校に行くのに、自分だ けでは歩けないし、親もいつまでも私をおんぶして学校に連れて行けないので、補装具をつけて通いま した。何で私だけっていうのは、心の中で、小さいながらに思っていました。

学校が楽しいということはありませんでしたが、小学校 5 年生の時に、担任の先生がプールは足が悪く ても泳げるから、水着をもっておいでって言ってくれました。ずっと体操なんてした事がなかったんで すけど、それから体操といったら、母が学校に服を着替えさせに来てくれて、そうしながら教えてもら いました。それで、泳げるようになったんです。だから、「人形の足や」とか、「けったいな足や」とか 言われたりもしましたけど、それは嬉しかったです。

小学校でいじめられるのは嫌でしたけど、母には言いませんでした。母がかわいそうと思って。母は自 分は怪我してないから、それが負い目になっていたのかもしれません。ある時、言ってました。「いずれは、 手術で足を継ぎ足して、つけられるようになる。そうなったら、お母ちゃんの足やるわ」って。

やっぱり皆と一緒にスカートを履けるというのは嬉しかったですね。 スカートを履いて、よく遊びに行っ たりしました。でも、いくら良い義足が出来ても、自分の足で歩けたらなって思います。 足だけ変えて 欲しい。足さえ返してくれたら、それで走りたい。戦争がなかったらこんなことにはならなかったのにね。 


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小林英子氏

夢を見ました。今度は怪我をしないように上手に逃げようっていう夢を。それで、怪我しなくて良かっ たなって、皆で喜んでいる夢です。その夢はだんだん見ないようになりましたけど、それでも 10 年前ぐ らいまでは時々見ました。

終戦の年の 2 月に疎開先から帰ってきて、中学校に入学しました。でも、五月には学校が焼けてお休み になって、6 月には空襲で怪我をしました。だから、中学は 1 ヵ月間しか行っていません。母親には勝 手に逃げたって怒られるし、お父さんはどこかで死んだのか帰ってきませんでした。近所は戦争のため に皆、貧乏でしたし、誰かに助けてもらえることなんてありませんでした。

16 歳になった時、化粧品会社に働きに行きました。私は足が悪いから受付においてもらっていました。 でも、ある時、売れ筋商品の返品が相次いで、私が一番の槍玉に挙がり「足の悪い、こんなのを雇って るからだ」と言われました。それで、1 年半は雇ってもらってたんですが辞職しました。私は義務教育 をほとんど受けてないですし、でしゃばったら「足が悪いくせに」とか言われるから、どの職場でもお 給料さえもらえたらそれでいいと思って働いてきました。人に言われたら、うんうんって賛成して、大 人しい人と付き合って。なんとか、食べていかなくちゃっていうのが一番でした。 


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