Kazuma Obara

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日本にフォトジャーナリズムは存在するのか。

  • 2017/12/7

ある雑誌のインタビューを受けることになり、テーマの一つがフォトジャーナリズムだということで、東京に向かう新幹線の中で、何を話すべきかとあれこれ考えている。そして、それ以前に確認すべきだろうことは日本に果たして「フォト」ジャーナリズムというものがあるのだろうかという前提であろう、ということを考える。僕は非常に危険な言葉遣いをしていることを認識しているが、少なくとも、欧米レベルの、そして特に「若年層」をターゲットにした「マス」フォトジャーナリズムはほぼ存在していないといっても、そこまで変なことを言っていないだろう。多くの若者が紙媒体としての新聞から離れ、SNSが情報ソースの入り口となる現在の状況において日本のマスメディアのウェブ戦略はWindows95からアップデートされてない。おそらく欧米のそれと比べて周回遅れどころの話ではない。

考るべき論点は、哲学としてのフォトジャーナリズムがフォトジャーナリズム創世記(70年前ぐらい)の思考からそこまで変化していないだろうということについて。その為に、システムとして表現方法を紙もウェブも変える必要に迫られていないということ。そして、悪いことに、新聞において写真はテキストの補完的役割としてのポジションを担うことによって、多くの場合、所謂「クラシック」なフォトジャーナリズムの良さも果たすことが出来ていない。「クラシックな」という言葉の意味は、現在の欧米圏をはじめとする海外のフォトジャーナリズム及びドキュメンタリー写真の中では新たなチャレンジとして、New visual storytellingというような言い回し(新たな視覚的表現)が一般的に用いられており、それと比較してクラシックな(古典的な)スタイルということである。(どちらが良い悪いという話ではない。)

欧米においては、インターネットの発達に伴い、「既存の写真」の見せ方をどのように変えることが出来るのかというチャレンジに一通り区切りが着き(日本はまだその見せ方にすら着手出来ていないように思えるのでWindows95と表現した)、現在は、SNSを通して、無尽蔵に消費されていくイメージ/問題に対して、どのように違う見方をさせることが出来るどろうかという、テーマのヴィジュアル化に対し、視覚的アプローチを変化させようという動きが起こっている時代だと思う。(それが所謂、New visual storytellingと語られるところだと思う。)それに対して、日本の所謂フォトジャーナリズムの分野では、そのような挑戦があるのだろうか。この分野に関しては、おそらく日本の写真作家と呼ばれる人々の方がよっぽど先進的だし、アート分野で写真を取り扱っている人の方が、海外のフォトジャーナリズムの流れに詳しい感覚を覚える。(国外ではフォトジャーナリズムとアートの垣根は極めて低いということが大きな理由の一つだろう。)

アカデミックな分野としてフォトジャーナリズムが体系的に確立されていないことも問題を根深くする一つであろう。日本では、フォトジャーナリズムの修士も博士もとれない。だから、教える人間も批評家も少ないし、最新のフォトジャーナリズムに関する議論等もほとんど聞いたことが無い。

僕が欧米のフォトジャーナリズムにカブレていることは自覚しているし、単純に他国と日本を比較することに意味がどれだけあるのかは分からないが、英語圏のメディアにように、競争にさらさせていないガラパゴスの国、日本のフォトジャーナリズムは深刻な状況にあることは間違いない。もしくは、深刻なのではなく、写真にはそのような役割は求められていないのか。