Kazuma Obara

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自覚的であるために。

  • 2019/01/4

広河隆一氏によるレイプ、セクハラ報道を受け、年の瀬から考えを巡らせている。新年が明け、数日がたち自分なりにあれこれ考えたが、広河氏によるその性犯罪に対し、自分の立場から、その重みを伴うだけの言葉を未だ見つけることが出来ない。ありきたりな言葉になってしまうが、被害者の方々の精神的な回復がなされることと、二次被害が拡大しないことを心から願っている。また、これを機に旧来型の思考、その仕組み、権力構造に幕が閉じられることを強く望む。被害者の方の勇気、姿勢に対し、写真を生業にする一人として、私自身が出来ることを考えなければいけない。

 

私は金融機関の営業マンをしていた2010年に約半年間、DAYS JAPANのフォトジャーナリズム学校と呼ばれる連続講義に通っていた。隔週の週末に月二回開講される授業では、毎回、外部講師が講義をしてくれた。フリーランスのフォトジャーナリストもいれば、大手新聞社の方もいて様々な仕事からその姿勢について学んだ。夏には1週間ほどの短期ワークショップが沖縄で開講され、私自身が勝手に師匠と仰ぐフォトジャーナリストの方との出会いもあり(震災時には短期的に助手のようなことをさせてもらい、本当に多くのことを学ばせて頂いた)、短い期間ではあったが自分自身にとっては実りの多いものだった。そのワークショップ内での取材内容がDAYS JAPANにも掲載されるという企画もあり、サラリーマンをしていた私は、そこで掲載された自分の写真を両親に見せながら、会社を退職する旨を報告した。どの道、会社を退職してフリーランスを目指そうと思ってはいたが、DAYS JAPAN という存在とフォトジャーナリズム学校というのは、駆け出してすらいない私にとって大きな励みになったことは間違いない。今でこそ連絡を取り合っている人はほんの数人だが、そこには、同じようにフォトジャーナリストを志す若者たちがワークショップに参加していた。その教育プログラム自体は2、3年程で終わったと記憶しているが、フォトジャーナリズム・ドキュメンタリーの教育機関が十分に存在しない日本の環境において、若者に対し学ぶ機会と発表の機会を与えたDAYS JAPAN、広河氏の取り組みの意義は、少なくとも私にとっては大きかった。

 

しかし、一方で、日本のヴィジュアルジャーナリズムにおける多様性の無さが、広河氏にその権力を集中させる一因になっていると、仕事を進めるうちに感じ始めた。日本の新聞社はフリーランスに対しオープンではなく、フリーランスの人間が継続的に発表出来る媒体で「硬派」な媒体(政治スタンスはさておき)となると、片手で数えるほどしかない。(国外であれば、多くの場合、新聞社に写真を提供することがフリーランスフォトジャーナリストを目指す第一ステップである。)DAYS JAPANが硬派だったかどうかという議論やその内容の評価はさておき、写真のストーリーに割かれるページ数が多い媒体という点では、DAYS JAPAN自身が標榜するようにヴィジュアルジャーナリズムに特化した唯一の媒体であった。フォトジャーナリズムというニッチな産業において、DAYS JAPANは国内の数少ない窓口の一つであったし、だからこそ、広河氏やDAYS JAPANに教えを仰ぐ人間が少なくないという構造は自然な流れだったと思う。そして、だからこそ、広河氏は自分の権力に自覚的である必要があったし、その権力を利用した罪は底知れず深い。

 

同時に「権力」を持った人間の「うわさ」に対し、周囲の人間がもっと自覚的である必要性を痛感した。多くの関係者が、大小はあれど、広河氏の噂を耳にしていたのは、SNSで少なくない人間が書き込みをしていることから想像できるが、私も含む周囲は、そのうわさを放置することで、被害者を生み続ける環境を継続させてしまった。うわさの実態が性的暴行だったということについては、多くの人間が知らなかったのだと思うが、「権力者」の「うわさ」というものにもっと慎重で自覚的でなければいけなかった。

 

また、ジャーナリズムという社会問題を扱う媒体であるが故に、その報道内容に迷惑をかけないため、もしくは改善を望むために、報道サイドの被害者が口をつぐむということに問題の深さを感じる。

 

写真家という自分の立場から言えば、私は自分自身の認識の甘さによって、DAYS JAPANという媒体で仕事を掲載するという選択をした自己の責任について考えなければいけない。その背景がどういうものであったかは別にして、自分は、写真を提供するという形で、結果として、広河氏の立場を支持していた。そして、そこで掲載された私の被写体となった人々が今後、少なからず違った見方をされてしまう可能性について、私は心から申し訳なく思う。

 

今回報道された週刊文春の記事を読んで、2015年にインド人キュレータManik Katyalがセクシャルハラスメントで訴えられた件を思い出した。同時に、その際、写真家でライターでもあるColin Pantallがブログで訴えた業界的な取り組みを望む記事を思い返した。特に2015年以降、男性フォトグラファー、エディター、キュレーターのセクハラ、パワハラに対して、著名な女性写真家が声をあげ、少しづつ、そこに対する改善の動きが見られてきた。そして、今、WOMEN PHOTOGRAPHをはじめ、フォトジャーナリズム・ドキュメンタリー業界におけるMee Tooムーブメントに呼応して、様々な具体的な行動がなされている。その中で、少なくない写真家やフォトエディターが、パワハラ、セクハラを行う人間と仕事をしないことを表明することで、それぞれの立ち位置で責任を果たそうとしている。よほど名の通った写真家でもない限り、発表に際して写真家は弱い立場に立たされる。駆け出しで、かつ、女性となると、その立場はさらに難しい。男性が大多数を占めるこの業界において、今後、まず被害者の勇気に頼る前に、仕事を請け負う大多数の男性自身が、どのように仕事を選択するかということを示さない限り、広河氏の件は、氷山の一角を見る以上のものにはならないだろう。今後、DAYS JAPANという媒体がなくなる中で、国内に関してだけ言えば、その権力は、他のどこかでより強化されることも想定される。広河氏と関わりのあった媒体が、様々な声明を出しているが、関わりのない団体、媒体も含め、権力による暴力を起こさせない指針を示すことが求められる。

 

私自身、撮影する側、媒体を選択する側、写真を教える側など様々な立ち位置から、より自覚的に行動しなければいけない。