Kazuma Obara

»Works

»Books

»Exhibition/Talk

»Workshop

»Essay/Book Review

»Media

»SNS

「統計値」から「個」を / 「マスメディア」から「地域メディア」を

  • 2020/04/17


 

 

「一人の死は悲劇だが、数百の死は統計になる。」

 

Netflix「Designated Survivor」のシーズン3で、たしか大統領選挙のキャンペーンマネージャーを演じるジュリー・ホワイトがそんなことを言っていた。

 

自粛要請以降、毎晩見ているシリーズ。別段、真新しいことを指摘しているわけではないこの言葉だったが、コロナ禍の今、しこりのように胸に残った。

 

カメラが発明されて以降、写真はその統計となってしまった数字を目に見える「個」として描くことで、問題から遠く離れた人に、血の通った人間に起きている「事実、もしくは真実なるもの」を伝える試みを行なってきた。(念のためだが、統計を軽視しているわけでは全く無い。)それは、「個」が単純な「数字」に置き換えられ、意図的に命が軽視されてきたことへの抵抗であったと思うし、仮に「個の悲劇」が大量に消費されるフェーズに入ったとしても、表現手法を変えながら、なんとか「個」に執着する試みが行われてきた。それは、写真というメディアの特性が「フィールド/現場」と密接に関わってきているという側面が多分に関わるだろうと思う。写真の「事実/真実性」なるもの(それを信じられる回数は極度に減ってきたと思うが)や写真が生み出す「共感」というものがあるのだとしたら、それは、その場に写真を撮った人間がいた、もしくは、そこにカメラがあった、もしくは、その人間がそこでカメラを撮ったというそれ自体の事実が、写真の強みの重要な一部であったから。

 

しかし、コロナ以降の世界において、その「現場で撮る」という話は、大分違う様相を見せていると同時に、フリーランスにおいては、その撮影自体がどのように可能になるのかをまさに今考えなければいけないように思う。

 

ロンドンの大学院でフォトジャーナリズムを学んでいた際に印象深かったものの一つに、戦争取材の導入の授業があった。(ちなみに大学院から課されるアサインメントの提出には戦争取材が禁じられていた。生徒が戦争で負傷した場合、大学院のコースを閉鎖しなければいけないということだった。)戦争・紛争取材の授業では実際に取材に当たったことのあるChannel4やBBCのビデオグラファーが来て、会社との契約内容などについて話をしてくれた。それは戦争取材においての英雄的な話ではなく、むしろ、その前。会社との契約における法的な内容も含め、その手続きについてであったため、非常に新鮮だったことを覚えている。

 

戦争のような局地的な取材においては、そこに行く人だけが、それを学べばよかった。しかし、新型コロナのような状況下では、そのプロトコルをフリーランスの人間こそ、しっかりと構築しなければ、撮影への一歩を踏み出すことさえ困難であるように思える。マスクの調達、防疫のための基礎訓練など、何が必要なのかということを明確化し、アサインメントを受ける場合においても、撮影する人間と被写体となる人々を守るための最低限の前提条件を整えるべきだろう。

 

4月15日付のニューヨークタイムスの記事「Photojournalists Struggle Through the Pandemic, With Masks and Long Lenses(フォトジャーナリズムはマスクと望遠レンズでパンデミックにもがく、みたいな日本語訳)」では、おそらくこれから先に(もしくは、今よりもさらに)日本のフリーランサーが直面するであろう課題を提示してくれている。Chromeの翻訳機能を使えば、日本語でもある程度読めるので、是非興味ある方は読んで頂きたい。記事の最後に登場するアリゾナ出身の4名のフォトジャーナリストで構成されるJuntos Photo Coopは、労働条件に関する雇用者へのオープンレターを提示している。感染リスクに対する持続的な議論、病気になった際の治療費の負担、保険、情報量が少なく、財政基盤が弱いフリーランスにとって重要な項目が並ぶ。

 

メンバーのCaitlin O’Haraが記事中で語る。

 

“We’re finding out that the most vulnerable people in our industry are the ones without health insurance, who can’t pay rent, who can’t afford to quarantine,” said Caitlin O’Hara, a Coop member. “We’re going to lose all these diverse voices in our industry if only the people who can afford to quarantine can keep working.”

 

(私たちは、この業界の中で価値ある仕事をしてきた人々の多くが、健康保険もなく、家賃も払えず、隔離に対して余裕のある人間では無いことを理解しつつある。私たちはジャーナリズムの中にあるそれらの多様性のある声を失っていくだろう。もし、隔離に耐えうる人材だけが、仕事を続けることになるのだとしたら。)

 

現場からの匿名の叫びは、SNS上で日々、増していく中、匿名の叫びと業界団体の声明の間を行く、ジャーナリストの仕事が決定的に欠如しているように感じる。アノニマスな誰かを一人の「個」として統計値から取り出す作業をフォトジャーナリズムが今担うべきなのでは無いかと、日々の報道を見ていて強く思う。

 

同時に、これからは地域ジャーナリズムの欠如が大きく一人一人に現実の問題として、のしかかってくるのでは無いかと思う。地方分権の問題は、政治の話だけでは無い。日本のジャーナリズムの構造だって、同じような問題を抱える。僕たちは、所謂、五大紙や主要テレビネットワーク以外のメディアの多様性を地域において持っていない。これだけそれぞれが住む地域の問題として、すぐ目の前にコロナの問題があっても、どこか遠くの話に聞こえてしまうのは、地域メディアの欠如による側面も少なくないように思える。僕らはいつも、限られた都市の同じ場所を見ている。

 

例えば、人口約30万人を抱える私の居住地大阪府茨木市は、地元の新聞を持っていない。故郷、岩手県の県庁所在地である盛岡市とほぼ同じ同程度の人口規模を持ちながらも、そこにはメディアが存在していない。僕らが拠り所にしなければいけないのは、市の広報のみである。その危うさを今、肌感覚で感じている。

 

地域メディアの欠如という問題は、コロナ禍以前の社会においては、多くの地域において目に見えて問題にはならなかったかもしれない。しかし、震災と原発事故以降、被災地域で地域メディア・ラジオ局が立ち上がっていたことでも明らかなように、地域に抱えた問題は、その地域からの発信によって、そこに住む人々へマスメディアが補足しきれない幅広い情報をもたらしてくれる。

 

2011年の時のようには、海外メディアは日本の状況を補足してくれないし、人も派遣出来ない。勿論、パンデミックは一国の問題では無いから、日本の状況も注視されるだろうけれど、移動の制限がかけられる以上、地域のジャーナリズムは、その地域の人材にかかってくる。都市部を中心とした日本のメディア構造が、民間からの情報発信に地域格差を生むのは目に見えている。

 

地域ジャーナリズムを作っていく準備を早急にする必要があると思うし、誰か一緒に考えたい方いたら是非、ご一報を。

 

(上記、NYTimsの記事中には、米誌Vanity Fairで掲載されたイタリア出身の写真家Alex Majoli(マグナム・フォト)のコミッションワーク「The eyes of the storm」、Caitlin Ochsの仕事中の防護及び、「いかれてるんじゃ無いか」と思うほどに、消毒作業を繰り返す日々もつづられている。是非、お時間あるの方は。)